LOGIN管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。
肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。
五人は一列になって進んだ。
先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。
誰も背後を空けたくなかった。
だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。
壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。
かち。
かち。
まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。
「止まって」
朔が片手を上げた。
澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。
右側の壁に、細い横穴が開いていた。
高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。
朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。
「何が見える?」
澪が囁く。
「放送室」
朔が横へずれた。
澪も覗く。
壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。
壊された扉。
床の血痕。
切断された黒い磁気テープ。
オープンリール式録音機。
見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。
もし誰かがここに立っていたなら。
透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。
澪は目を離した。
首筋が冷える。
「これ、覗き穴……?」
奈々香の声が細い。
「そう見える」
美月が答えた。
数メートル進むと、また穴があった。
今度は音楽室。
グランドピアノを横から見下ろす位置。
ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。
次は女子トイレ。
四番目の個室を隠す壁の裏側。
さらに舞踊室。
一方通行の鏡の向こう。
奈々香が足を止めた。
「ずっと……見てたってこと?」
誰も返事をしなかった。
鏡の中で自分だけが遅れたとき。
耳から血が流れたとき。
四番目の個室へ閉じ込められたとき。
誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。
それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。
最初から見るために穴を開けている。
澪は背後の奈々香が呼吸を乱すのを聞いた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
奈々香は即答した。
「でも止まりたくない。ここで止まったら、壁の向こうからまた見られてる気がする」
悠斗が低く言う。
「実際、どこかで見られてるかもしれない」
「言わないでよ」
「事実だろ」
美月が二人を振り返ろうとして、狭い壁へ肩をぶつけた。
「今は前へ進む。誰が仕掛けたか分かれば、外へ出る方法も見つかるかもしれない」
朔は何も言わず、さらに奥へ進んだ。
通路の終点には鉄扉があった。
灰色の塗装は古い。だが取っ手だけが新しく、手垢のような黒い跡が残っている。
鍵穴がある。
朔が手袋越しに取っ手へ触れた。
「鍵は掛かってない」
「罠じゃないの」
奈々香が言う。
「可能性はある」
「それでも開けるの?」
「ここまで誘導した相手が、今さら扉だけ閉じておく理由はない」
朔がゆっくり押した。
鉄扉が内側へ開く。
冷たい風が通路へ流れた。
機械の熱と埃の匂い。
低いファンの回転音。
部屋の中で、十数枚の画面が青白く光っていた。
監視室だった。
横長の机が三列。
壁一面へ設置されたモニター。
録音機。
無線機。
遠隔操作用の端末。
校舎全体の見取り図。
床には電源ケーブルが束になって這い、複数の予備電源が金属棚へ並んでいる。
人がつい先ほどまで座っていたように、中央の椅子だけが机から少し引かれていた。
「……全部ここから?」
美月が息を呑む。
朔は最初の端末へ近づいた。
画面には校舎の見取り図が表示されている。
二年七組。
放送室。
音楽室。
舞踊室。
女子トイレ。
東階段。
それぞれの場所から細い線が中央の制御盤へ伸びていた。
画面左側には装置名が並ぶ。
照明落下。
東階段可動板。
女子トイレ第四区画施錠。
音楽室鍵盤駆動。
放送室巻取機。
舞踊室遅延投影。
澪の指先が冷たくなった。
「照明まで……」
自分の頭上へ落ちた器具。
澄花の姿が窓へ映らなければ、朔が腕を引かなければ、直撃していた。
「操作できる」
朔が端末を確認する。
「手動と自動の両方。時間指定も、センサー連動もある」
悠斗が別の画面を覗き込んだ。
「これ、踏み板の荷重まで見てるぞ」
東階段の図の脇に、重量を示す数字が残っている。
悠斗が十三段目へ乗ったときの記録だった。
奈々香の個室には水位演出、扉施錠、音声再生。
音楽室には鍵盤駆動と投影。
七不思議は、独立した怪談ではなかった。
一つの部屋から動かされる装置だった。
「誰かが、私たちをここまで歩かせてた」
奈々香が呟いた。
美月の声はもっと低かった。
「透も」
放送室巻取機。
その項目の横に、実行済みを示す印がついている。
部屋の空気が重くなる。
朔はその画面を撮影した。
「触るな。操作履歴を残す」
「もう遅いだろ」
悠斗の声が震えている。
「実行済みって出てる。人を殺した装置の操作記録だぞ」
美月が画面から目を逸らさなかった。
「警察に渡せれば証拠になる」
「外へ出られればな」
モニターには校舎各所の現在映像が映っていた。
二年七組。
透の遺体。
教室の扉へ貼った封印テープは、ここからでも破られていないことが分かる。
音楽室。
誰もいないグランドピアノ。
鍵盤は動いていない。
三階女子トイレ。
四番目の個室は開いたまま。
舞踊室。
割れた鏡と、露出した裏部屋。
東階段。
十二段だけの古い階段。
すべて映っている。
「カメラ、いつからあったの」
奈々香が訊く。
「俺たちが持ち込んだものじゃない」
朔がモニターの映像情報を開いた。
「固定カメラ。少なくとも数か月前には設置されてる」
その中に、一台だけ異質な画面があった。
右端。
映像は暗い教室を映している。
七つの机。
円形ではない。
二列と三列に崩れた配置で、窓の形も二年七組とは違う。黒板の横には古い木製の戸棚があり、その上に丸い時計が掛かっていた。
「これ、どこ?」
美月が校内図を見る。
同じ形の教室を探す。
澪はモニターから目を離せなかった。
七つの机のうち、一つに少女が座っている。
制服姿。
長い黒髪。
カメラへ背を向けている。
「澄花……」
奈々香が息を呑んだ。
澪は机の配置を見た。
「二年七組じゃない」
「分かるの?」
「窓が違う。二年七組は三枚並んでた。ここは二枚。黒板の右側に戸棚もなかった」
悠斗が見取り図を開き、教室の形を照合する。
「こんな部屋はない」
「別棟?」
「旧図面にもない」
朔は映像の右上へ目を向けた。
時刻表示。
八年前の事件当日。
午後十一時四十一分。
秒だけが現在進行形で増えている。
その横に赤い文字。
LIVE。
「おかしい」
美月が言った。
「八年前の映像なら録画でしょう」
「表示だけ偽装できる」
朔は端末を操作し、映像の入力元を確認する。
数秒後、眉が寄った。
「録画ファイルじゃない」
「じゃあ何」
「現在入力されてる映像として認識されてる」
奈々香が首を振る。
「現在って、画面の日付は八年前だよ」
「だから合わない」
少女は動かない。
背中だけを見せ、七つの机の中央に座っている。
机の上には何もない。
足元には、黒い布袋のようなものが置かれていた。
澪のポケットの赤い組紐が、僅かに熱を持った。
少女が右手を上げた。
ゆっくりと。
指先で黒板を指す。
黒板には何も書かれていない。
次の瞬間、映像が一度だけ乱れた。
少女の首が、こちらへ向きかける。
朔が画面を止めようとした。
操作を受け付けない。
「切れない」
映像は続く。
だが少女は最後まで振り返らなかった。
頭を少し傾け、また正面へ戻る。
「この教室、どこかにある」
澪は呟いた。
「図面にはない」
悠斗が言う。
「図面にない通路もあった」
美月の言葉で、全員が黙った。
朔は別の端末を起動した。
「履歴を見る」
管理画面には、過去の操作記録が残っていた。
今夜だけではない。
三か月前。
四か月前。
半年前。
一定の間隔で装置が起動している。
監視カメラ。
位置情報発信機。
音声収集。
外部回線。
澪たちの生活を撮影した写真の保存日時とも一致していた。
「数か月かけて準備してた」
美月が言う。
「もっと前からかもしれない」
写真の整理用フォルダには、五人の名前ごとに分類された画像がある。
透のフォルダもあった。
死亡する直前までの生活。
勤務先。
スタジオ。
移動経路。
誰かが六人を一人ずつ調べ、今夜ここへ来ることを前提に行動を組み立てていた。
悠斗が操作履歴の利用者欄を開いた。
一つの名しかない。
K7_ADMIN。
「管理者?」
「七刻の頭文字か」
朔が言う。
「ほかのアカウントはない」
最終ログイン。
悠斗が時刻を読み上げた。
「午後十一時七分」
澪は記憶をたどる。
その時間。
六人は山道の入口で合流し、門へ向かっていた。
いや。
午後十一時七分なら、まだ全員が校門の外にいた。
「六人とも一緒だった」
美月が言った。
「透も生きてた」
「なら誰かが先に入ってた」
奈々香の声が乾く。
「または遠隔」
朔が端末の通信履歴を開く。
「外部から接続できる構成にはなってる」
「場所は分かる?」
「接続記録を消してる」
悠斗が舌打ちした。
「何でもありだな」
「違う」
澪は監視室を見回した。
「何でもできるように、誰かが作ったんだよ」
その言葉へ、自分自身が最も寒気を覚えた。
机の端に、分厚い紙束が置かれている。
黒いファイル。
表紙には何もない。
澪が手を伸ばそうとすると、朔が止めた。
「手袋」
「ごめん」
美月から予備を受け取る。
澪はファイルを開いた。
最初の頁。
七刻女学校 進行表。
日時。
対象者六名。
開始地点。
七つの装置。
読み進めるほど、指が冷たくなった。
雨宮澪。
赤い組紐を確認後、恐怖反応上昇。
過去記憶への接触。
神代朔への依存継続。
神代朔。
装置の解析を担当。
説明可能な現象を提示し、集団の安定を維持。
同時に疑惑を集積。
早乙女美月。
医療判断によって集団行動を維持。
死者発生後、現場保存を優先。
黒瀬悠斗。
合理化による怪異否定。
追及を受けた場合、攻撃性上昇。
白石奈々香。
視覚刺激への反応大。
孤立恐怖を利用可能。
「何、これ……」
奈々香が澪の肩越しに読み、顔を歪めた。
単なる罠の手順ではない。
誰がどこで怯えるか。
誰が誰を疑うか。
誰がどんな言葉を口にするか。
五人の性格まで予測されている。
澪は頁をめくった。
二年七組。
質問紙。
三名が虚偽回答。
疑心形成。
音楽室。
神代所有機材を提示。
白石奈々香の疑念を神代へ誘導。
舞踊室。
黒瀬悠斗の靴跡と類似する痕跡を残す。
集団内疑惑を分散。
「私たちが疑う順番まで……」
美月の声が掠れる。
悠斗は紙を奪いかけ、途中で手を止めた。
「次」
澪はさらにめくる。
放送室。
相馬透。
その名の下。
第一犠牲者、相馬透。
密室で死亡。 残りは互いを疑う。奈々香が口を押さえた。
美月は瞬きもしない。
悠斗の手から工具が落ち、床へ金属音が響いた。
「最初から……」
澪の喉が震える。
「透が死ぬって、決めてた」
朔だけが紙を見つめていた。
表情は崩れていない。
だが呼吸が浅くなっている。
「続きがある」
美月が言った。
透の記述の下。
横線。
その次に。
第二犠牲者。
名前の欄は、黒く塗り潰されていた。
太い黒いインク。
何度も重ねて塗られ、紙が湿気を吸ったように波打っている。
奈々香が後退する。
「誰……?」
澪は黒い部分へ目を凝らした。
下の文字は透けない。
ただ、塗り潰された端から赤いインクが一滴だけ滲み出していた。
紙の表面をゆっくり流れ、第二犠牲者という文字の下へ落ちる。
その瞬間。
右端の〈LIVE〉モニターで、制服姿の少女が立ち上がった。
七つの机のうち、一脚を両手で引く。
誰かのために席を空けるように。
ぎい、と。
監視室の中には存在しないはずの椅子を引く音が、五人のすぐ背後から聞こえた。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗